なぜアスリートの道を歩みはじめたのか。どのような思いでここまできたのか。節目で響く母の言葉を素直に受け入れ突き進む山田選手。負けず嫌いな彼女の競技人生に迫ります。

1992年7月17日に三重県で生まれたあゆみちゃん。毎日泣いて幼稚園から帰ってくるようなちょっと泣き虫な女の子。そんな少女がフェンシングと出会ったのは小学4年生の頃。友達に誘われた地元のスポーツクラブに、弟と一緒に見学に行ったことがきっかけだった。

習い事で多忙な少女時代 勝てない悔しさが持続力に

「母親は私たち姉弟に何かスポーツをやらせたかったようで、空手とかスイミングとかいろいろ習っていました。だけどセンスがないのか、どれも身につかなかったんです。フェンシングも自分から進んで始めたのではなくて、弟がやりたがった。じゃあ一緒にやってみようかな、くらいの軽い気持ちでした」
土曜と日曜の週2回、地元のスポーツクラブに通い、そのほかにもピアノや日本舞踊も習っていた。遊びたい盛りの小学生にとって、たくさんの習い事を嫌に思う気持ちもあったが、母親はそう簡単には辞めることを許してくれなかった。
中学時代ではフェンシングとの両立を考え吹奏楽部へ入部する。クラリネットパートとして3年間過ごした。
「楽しさより、勝てない悔しさからフェンシングを続けていましたね。フェンシングは競技人口が少ないスポーツなので、エントリーすれば全国大会にすぐに出場できたんですけど、出たところで勝てなかった。なんで上にいけないのだろうって、すごく悔しい思いがありました。その頃から結果を出していたら、たぶんここまで続けずに辞めていただろうな」

母の一言でさぼり癖卒業 努力の末に才能が花開く

全国で勝てるような選手になりたいという思いから、フェンシング強豪校の三重県立鳥羽高等学校へ進学する。現役を退いたばかりの選手が顧問として指導に当たっていることもあり、練習は想像以上に厳しいものだった。
1年生の頃は何かと理由をつけて、部活をさぼっていた。2年生になってからもそんな状況が続き、見かねた母親が放った一言が山田選手の闘志に火をつける。
「母親に『辞めるか、ちゃんとやるか、どちらかにはっきりしなさい』って言われたんです。そうしたら辞めるのが悔しくなってしまった。辞める前にもう一度頑張って、自分がどこまでできるか試してみたくなった。きっと負けず嫌いな性格が出たんでしょうね」
そこから猛特訓が始まった。練習に毎日参加するのはもちろん、顧問に直談判して、マンツーマンのレッスンを受けた。
そんな努力が実を結び、急激に実力を付けていく。その年のインターハイで銅メダルを獲得、その後のジュニアオリンピックでも銀メダルに輝くと、アジア選手権と世界選手権の日本代表にそれぞれ選ばれた。
「やればできるじゃんっていうのに気付いた。長い間くすぶっていて、やっとここでエンジンがかかりました。辞めないでここまで続けてきて、本当によかったって思いました」
しかし、3年生のインターハイでまさかの出来事が起こる。
フェンシングの「フルーレ」「エペ」「サーブル」の3種目のうち、彼女はフルーレで日本代表に選ばれていたのだが、その種目で県予選に敗退してしまったのだ。どん底に落とされた気分を味わったが、ここで隠れていた才能が姿を現し始める。
「エペはインターハイの出場権を取れたので、そこからエペを猛練習しました。フルーレで出場できなかった分、エペで優勝するしかないと思っていました。けれども決勝の相手に全然歯が立たなかった。前年の銅メダルはすごく嬉しかったのに、1年後には銀メダルじゃ満足できなかった。金しか見ていなかったんです」
高校時代に全国優勝できなかった悔しさを晴らすために、そして日本代表として世界でも通用する選手になるために、日本大学への進学を決意する。もうフェンシングを続けることに迷いはなかった。

苦渋の決断がその後の 競技人生を変えた

「練習がきつくて、入って3日で後悔しました。日大は日本一練習がきついことで有名。厳しいトレーニングを毎日夜の9時10時まで練習していました。立っていられなくなるまで筋トレしたり、炎天下の中40キロ走ったり……。今思い出しても苦しくなるような日々でした」
周りは全国から集まった逸材ばかり。メンバー争いは常に厳しかった。そんな中で山田選手はフルーレとエペの2種目をやっていて、そのことに反感を持つ人もいたという。
山田選手のフルーレの腕前はナショナルチームのコーチから注目されていて、彼女自身もフルーレをやり続けたい気持ちがあった。しかし仲間からはその気持ちを認めてもらえず、監督からもエペに絞ってやって欲しいと言われていた。
フルーレをとるかエペをとるか、苦渋の選択を迫られた。
「母親から『あなたは他の子と違って、器用にどっちもできるんだから、今だけエペに専念してみれば?』って言われて、そんな考えもあるんだなって。今は我慢して、また卒業したらフルーレに戻ればいいや、エペを頑張ってみようって思えるようになりました」
3年生になった山田選手はエペに集中することを決めた。そんな彼女を手厚く指導してくれたのは先輩や同期、後輩、そして弟だった。エペが面白く感じてくるにつれ、実力に磨きがかかった。ついには、高校3年生のインターハイ決勝で敗れた相手に勝ち、全日本学生選手権大会で優勝を飾った。

「優勝したことで、エペで日本代表を狙える自信がついた。周りの人たちが一生懸命教えてくれたことが嬉しかったし、結果もついてきたのでエペに残ることを決めました。フルーレはきっぱり諦められました」
大学生の頂点に立った山田選手だったが、卒業後も競技を続けることに迷いがあった。国内大会で優勝したからといって海外で通用するとは限らない。そんな彼女を後押ししたのはエペの仲間たちだった。
「周りは、私がオリンピックを当然目指すものだろうなと考えていたみたい。自分の競技レベルで続けていいのなら、オリンピックを目指して頑張ってみようと思いました」
2015年に城北信用金庫に入庫した後も、快進撃は続く。翌年の全日本選手権で銀に輝いた。そして2017年同大会では優勝を勝ち取り、堂々日本1位の座に輝いた。
「そうはいっても全日本。優勝にいつまでも浸っていてはだめ。目指しているのはオリンピックでメダルを獲ること。出るからには金がいいですね。ただ今は先を見すぎず、やるべきことをしっかりやっていきたい」
世界の頂点に向け、山田選手は躍進を続ける。

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